0・ヘンリ「運命の道」を読んで(24歳の日記から)

Titterで「人生は判断と覚悟の連続だ。」という若者のツイートに、つい「と、思ったら大間違い(笑)「運命の道」(O.ヘンリー)を読もう。」とリツイートしたら、速攻「1冊の小説を根拠に全否定されるんですか?」と返されてしまった。そりゃそうだよね。説明不足でしょう、やはり。というわけで、家に帰って若い頃の日記を読み返してみた。恥ずかしながら原文のママ公開しよう。(ネタバレあり)

1987年9月24日(木)雨/曇

 ずっと気になっていたことがあった。O・ヘンリの短編「運命の道」についてである。
 主人公のダヴィッド・ミニュはヴァルノアという村の羊飼いで、自称“詩人”である。
 恋人のイヴォンヌと喧嘩をしたこともあって、村を出る決心をする。「広い世界で名声と栄誉を求めるために」そして「ヴェルノアから通じる街道へ出て行った」。
 ここからが、興味深い。「道は、もう一本のもっと広い道に、直角につきあたるのだ。ダヴィッドは、しばらく迷いながら立っていたが──」やがて左への道を選び、死ぬ。次の節では「右の道」を選び、死ぬ。最後には、本道を戻り村に帰るが、やはり死の道を彼は選択する。その展開は、O・ヘンリ一流のもので、物語の展開は同じでありながら主人公の選択は違う。しかし彼は同じ銃の弾で命を失うのだ。一読すると「それが彼の運命なのだ」とO・ヘンリが言ってるようにみえる。しかし、それだけの小説なのだろうか、と僕はつねづね考えていた。小説のテクニックを誇示するかにみえるこの小説が、それだけのものだったら、O・ヘンリのあのきらめくような短編が同じ手から生まれるものだろうか。
「未来の運命を探して私はさまざまな道を行く 叡智の光をめざす誠実で強い心と愛──それがわが人生をさだめ、避け、支配し、形づくる戦いにおいて 私を支えてくれるのではないだろうか」というダヴィッドの詩に、村の公証人のパピノ氏だけが「すこしばかり不満の首をふった。」という冒頭のシーンが、今まで何を意味しているのか分からなかった。
 運命は、一段高いところから見れば、一本の道でしかない。最近、そう考えるようになった。
 判断というのは評価することである。要するに“それは何か、何を意味しているのか”をよく見るということだ。
 人生は行動の結果であり、判断の連続ではない。行動と実践を置きかえてもよい。
 自分の運命(内的な歴史、ひそやかな物語)は探したり、選んだり、ましてや占ったりするものではないのだ。迷う、という時点で、彼は決断を間違っている。彼の人生は、その交差点で決まったように見えるが、「実はそうではないんだよ」とヘンリは書いているようだ。
 一本の道をどう行くか。歩いたり、走ったり、立ち止まったり、時には後を振りかえり、戻ったりしながら、そこで何を見、聴き、触れ、感じ、思い、考え、覚え、身につけて、そして何を生み、残してゆけるかが、問題なのだ。そのための良い判断であり、選択なのだ。
 そう気づいたら、ずいぶん楽になったような気がする。気がするだけなのかもしれないけど。

 タイプしながら、思わず赤面。いやあ「若気の至り」とは、このことですなあ(笑)
 
 こんな駄文の代わりにその後のツイートで紹介したのは、この本>それでもなお、人を愛しなさい 人生の意味を見つけるための逆説の10カ条(ケント・M・キース): 極東ブログ

 確かに、この世界は狂っています。あなたにとってこの世界が意味をなさないと言うのなら、それはあなたの言うとおりです。この世界はまったく意味をなしていません。
 大切なことは、それについて不平を言うことではありません。希望をすてることでもありません。それはこういうことです。世界は意味をなしていません。しかし、あなた自身は意味をなすことが可能なのです。あなた自身は一人の人間としての意味を発見できるのです。それがこの本のポイントです。これは、狂った世界の中にあって人間として意味を見つけることについての本です。

 
 また「オーヘンリー 運命の道」で検索して見つけたこの頁>「オー・ヘンリー2」には、この小説が生まれた背景が書かれている。今でも新潮文庫に収録されており入手も可能だった。買っとこ(本棚になかった)
 
 日記ついでに言えば、もう一つ名言を発掘したエントリーがあるのでそれを引いて終わりにしよう。
 最も重要なのは──: 挨拶専用のオススメ。@広告業界志望の就活生向けから

人の能力には、基本的には、それほど大した差があるわけではないから、結局のところ人生の勝負は、志の高さとやる気を土台にして、地道に目標の実現に向かって努力するかどうかにかかってくるであろう。

 この日記をつけてから四半世紀。人生の勝負に負けてるんじゃないかと、戦慄の悪寒が……(春なのに寒いだけ?w)