「冥福」は祈らない(再)

 2011年、今年も多くの方が亡くなり、弔意の言葉がネットにも溢れた。
 かねてから気になっていた標記の言葉「冥福」について、しつこく述べたい。

 そもそも「冥福」とは、辞書で引けば──こうだ。
> 死後の幸福。また、死後の幸福を祈って仏事を営むこと。みょうふく。

 今年、あれだけ多くの無辜の死を前にして「死後の幸福」を語ることが果たして出来るのだろうかと感じる。ある日突然命を失った方や、その遺族に対して使っていい言葉なのだろうか? と。

 Wikipediaにはこう書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A5%E7%A6%8F#.E3.82.BF.E3.83.96.E3.83.BC

弔意を表すことばとして、「冥福を祈る」と使われる。しかしながら「冥」という字は、冥利のように「うかがい知れない何か」という意味であるが、日が暮れて非常に暗くなったこと、ものがはっきりと見えなくなったこと、瞑(目をつぶる)とよく似ていることから切ない死後の世界を連想させるため、避けるべきとする考えもある。
いくつかの宗教、あるいは宗派では、「冥福」の必要が無い。例えば、キリスト教のうちプロテスタントの一部の教派は、死後確実に神のいる天国に行くと考えている。またこれらの教派ではカトリックでいう煉獄や、陰府、冥府、古聖所など呼ばれた死後の世界は想定していない。仏教浄土真宗では、阿弥陀如来の他力本願により極楽浄土へと導かれるため不要。あるいは、信心不足や死者の迷いを指摘する言葉であり不適切とする考えがある。これらに対する無難な言葉として「心から哀悼の意を表します」などがあげられる。

 Googleで検索してみた。
「ご冥福をお祈りいたします」の検索結果=約 7,970,000 件
「心よりお悔やみ申し上げます」の検索結果=約 1,200,000 件
(個人的には「心から」を使うことが多いのだが=約 742,000 件!w)
 あーぁ。
 finalvent氏が、この名エントリーをアップしてから、もう8年になる。
(以下全文転載)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2003/12/post.html

2003.12.02

「冥福」は祈らない

 外交官殺害事件について各種ブログをザッピングしていて、「冥福」という言葉が奇妙に心に引っかかった。なにか痛ましい事件があると、メディア、とくにTVで「ご冥福をお祈りします」と来る。いつからそういう風潮になったのだろう。自分の少年期や青年期を思い起こすのだが、よくわからない。ただ、阪神大震災あたりから「あれ?」という違和感があった。この手の問題はどうも気持ちが悪い。
 話がそれるが、最近の若い子は食事の前に「いただきます」と言って合掌をするのだが、これもどこから入ってきた風習なのだろう。育児のことを現在ではあたりまえのように「子育て」と呼ぶが私の記憶では三好京三「子育てごっこ」以降のことだ。昭和50年である。広辞苑を見ると浮世風呂に「子育て」の用例があるのでこの時期の造語ではないようだが。
 「冥福」に話を戻すと、浄土真宗つまり門徒は「冥福」という言葉を使わない。御同行御同朋使だけで使わないわけでもない。この手の話はネットにあるだろうと探すとある。「浄土真宗の弔辞の例文」にはこうある(参考)。

 仏教でも、浄土真宗でも、故人の冥福を祈りません。
 既にご承知と思いますが、冥福とは、「冥土(冥途)で幸福になる」と言う意味です。そして、この「冥土(冥途)」とは、仏教以外のものの考え方なのです。
 つまり、ご遺族に「ご冥福をお祈りします」とご挨拶されることは、「亡くなられた方は、冥土(冥途)へ迷い込んだ」と言うことを意味し、「お浄土の故人を侮辱する無責任で心ない表現」と言えます。
 亡くなられた方は、何の障害もなく、お浄土に往かれています。亡くなれば「迷う者」として、「祈る(供養)」と言うことは、果たして遺されたご家族の悲しい気持ちに対してふさわしいものでしょうか。
 浄土真宗にご縁が深い方へのご挨拶なら、「○○さんのご冥福をお祈りします」ではなく、「○○さんのご遺徳を偲び、哀悼の意を表します」と、浄土真宗の教えにふさわしい言葉に言い換えましょう。

  「浄土真宗にご縁が深い方へのご挨拶」と限定されているが、門徒の信仰者ならどの人にも冥福は祈らない。門徒でない人間なら冥福を祈ってもいいのだろうか?と、そんな理屈をいうまでもなく、「ご冥福をお祈りします」は礼儀を示すというだけの空文なのだろう。つまり、「私は礼儀正しい人間だ」という表明なのだ。
 たまたまテレビのニュースで井ノ上正盛書記官のご夫人の映像があった。身重の映像で痛ましかった。TVに映す必要があるのか私にはわからない。痛ましいものだった。井ノ上正盛のご冥福を祈ると私はとうてい言えない。生まれてくるお子さんには「お父様はお国のために命をかけられたご立派なかたでした」と聞いて育ってもらいたいという思いが湧く。
 近代人は脱宗教化を遂げ、死後の世界など信じない。だから、こそ冥土の幸福が祈れるのだとしたら、そうすることで大きなものを失っているとしか思えない。