やっぱり、内田先生はすばらしい。

時間と死 (内田樹の研究室)から

私はかつて1年にわたって教師と級友たちから組織的にいじめられた小学生であったから、その時間の絶望的な長さははっきりと覚えている。時間を「逆向きに数える (compter à rebours) する」ことができない子どもたちにとって自殺は誘惑的な選択である。

子どもに自分たちが「時間的存在」であることを教えなさい、ということをこのところずっと語っている。時間の中を生きるということは、未知性のうちに生きるということである。一瞬後の世界は予見不能であり、その中で自分がどのようにふるまい、どのような社会的機能を担うことになるのかを主体は権利上言うことができないという事実「から」出発することである。それがレヴィナス老師の教えである。

私にはそれがあらゆる意味でいま日本社会にもっとも緊急に必要なことのように思われるのだが、時間の本来的未知性の大切さについて語る人はほとんどいない。むしろ、その逆に、メディアで語るほとんどすべての人は「未来がどうなるか私にはわかっている」ということを競っている。

「想定内です」という流行語はそのような無時間モデルで生きる人間のメンタリティをよく表している。「未来がどうなるかわからない」という原事実のうちに人間の人間性を基礎づけるすべてのものが棲まっているということに気づいている人はほんとうに、ほんとうに気が遠くなるほど少ない。メディアは「無時間で一般解を提示すること」を商売の基本にしているから、当然ながら時間と未知性には興味を示さない。

「子どもの自殺について200字以内でコメントを」というような仕事を出すことも引き受けることも怪しまない大人たちのせいで子どもの自殺が止まらないということにどうして人々は気づかずにいられるのであろうか。子どもたちが自殺するのは「自分の人生の意味を200字以内で言い切ることは可能であり、それができるのは自分が知的であり、自己の生を主体的に統御できていることの証拠である」と彼らが信じているからであり、そのような自己評価のあり方が私たちの社会では公的に認知されているからである。

いやー、すばらしいな。このテーマ関連では、
『広告業界就職フォーラム』挨拶専用ブログ: 時事問題(6)「いじめ」についてで、宋文洲さんとfinalventさんの文章を引いておいたが、さすが内田樹(たつる)先生。いいことをおっしゃる。
で。「あとは自分になにが出来るか」をふと考えてみる。結局一人の親として自分の子どもを見つめ、話しかけ、抱きとめること、と。こうして名文をコピペするしかない自分に対して無力感を確認することぐらいだな。嗚呼。