情報流通における「需要と供給」について。

(もしかしてトンデモ説になりそうな予感…)
人類の歴史において、特に食物・食料に関して言えば常に「需要より供給の方が多い(もしくは、そうあるべき)」と言えるでしょう。需要が供給より多い状態を指す言葉は、飢餓であり飢饉ですから。
「現代は情報過多」とか「広告の氾濫」とか枕詞によく多用されます。ごく単純に言うと、需要は「人口×時間×興味・関心」ですから(最初の2つは特に)限界があります。したがって、コミュニケーションを業とする者にとっては、3つめを如何に喚起するかということが目的となります。(ここまではいいよね?)だからこそ「どこにフォーカスするのか?」「どう伝えるのか?」といった戦略・手法が様々に開発されてきたのです。

で、現代社会では実に多くの製品・サービスが市場にリリースされるので、常に供給は過剰となっていて、その間に位置する(まさに)「メディア」が大きな役割を果たしているのです。ところが、通常の「製品・サービス」は供給過剰になると価格が下落してバランスが図られるようになっているのに、情報はそうなりません。それは何故なのでしょうか。

たとえば広告市場において、かつては煙草産業が大きなシェアを占めていました。今やその存在感は全くと言ってよいほどありません。ちょっと前まで消費者金融の広告が爆発的に増加していましたが、これも一時の勢いは見られません。では、広告市場が衰退したでしょうか? 一時の売上は確かに下がったかもしれません。しかし、すぐに新たな広告主やスポンサーとなるべき業種が現れ、その隙間を埋めていったではないですか。

たぶんきっと、こういうことなのだろうと思います。それは「好意(もしくは、恋)」に似ているのです。「好きになる人は多い」「好かれる人は少ない」。情報は、“静的な”商品ではなくて動的な「行為」なのです。ラブレターの上手なメッセンジャーは得ですよね。あるいは、1回プロポーズするより、100回したほうが可能性は高いよね。それを業界では「シェア・オブ・ボイス」と言います。