本については禿堂、新聞についてはどうよ?

「Googleとの和解 (内田樹の研究室)」↓から
http://blog.tatsuru.com/2009/03/23_1053.php

何度も書いたことを繰り返すが、私たちは「無料で本を読む」というところから読書人生をスタートさせる。
これに例外はない。
家の書棚にある本、図書館にある本、歯医者の待合室にある本などをぱらぱらめくるところから始めて、私たちはやがて「自分の本棚」を有するようになる。
自分の本棚に配架する本は自腹で購入した有料頒布のものに限定される。そこに公共図書館の本や他人の蔵書を並べることはルール違反だからである。
私たちは「自分の本棚」を自分の「脳内マップ」として他者の目にさらす。「こういう本を読んでいる人間」であると他人によって思われたいという欲望が私たちの選書を駆動している。そして、この欲望は多くの書籍を読み、十分なリテラシーを涵養しえた読者によってしか担われることができない。
だから、著作権者たちがほんとうに自己利益の増大を望んでいるなら、どのようにして「できるだけ多くの書籍を読み、高いリテラシーを身につけ、きわだって個性的な『自分の本棚』を持ちたいと願う読者たち」を恒常的に作り出し続けるかということを優先的に配慮するはずである。
自著がそのような書棚に選択され、「この人の書き物を書架に並べることは自分の知的・審美的威信を高めることになる」と思われることこそ(それが誤解であったにせよ)、もの書く人間の栄光であると私は思っている。
自著は「無償で読む機会が提供されたら、もう有償で購入する人はいなくなるであろう」と思っている人たちは、どこかで「栄光」をめざすことを断念した人たちである。

新聞(紙)を取っている事のメリットを、吸水性の高い再生紙or広告チラシの包装紙(失礼!)以外、何を主張できるかに「新聞の未来」があるのではないだろーか?