「格差社会(論)」に異議あり。

と、内田先生が書いている(参照)。少々長いが一部引用する。

結論を先に言ってしまえば、私は「格差はつねに存在したし、これからも存在するであろう。だから、格差を廃絶することはできない。できるのは格差が社会に壊乱的要素をもたらさないように扱うことだけである」という立場を取っている(私はこれを「階級」という概念の検討を通じて学んだ)。その点で、私は現在の日本の格差論者のほとんどと立場を異にする。彼らは格差の有害性を言い立てることには勤勉だが、格差のもたらす壊乱的要素を制御することにはいちじるしく不熱心だからである。ある社会的事象の有害性をつよく主張する人は、そのせいで社会秩序が壊滅的になることによってはじめて理説の正しさが証明されるために、事態がさらに悪化することを無意識のうちに切望することを止めることができない。

私たちは近代市民社会の起源において承認された前提が何だったかもう一度思い出す必要があるだろう。それは「全員が自己利益の追求を最優先すると、自己利益は安定的に確保できない」ということである。この経験則を発見した人々が近代市民社会の基礎を作ったのである。格差はつねに存在し、私たちは(意識しようとしまいと)そのつどすでに私が所有しなければ違う誰かに属していたはずのパンをおのれの口に咥えている。これは動かしがたい事実である。けれども、人間を差異化する根源的なカテゴリーはパンの有無によって決まるのではない。差異はたまたま自分の口にあるパンについて「私にはそれを占有する権利がある」と思っている人間と、「私にはそれを他者に贈与する権利がある」と思っている人間の間に引かれている。どちらもパンについての自由裁量権を持つことを喜びとする点では変わらない。だが、人間の共同体は後者のタイプの人間を一定数含むことなしには成立しないのである。

最後の一文は、まさにマザーテレサの精神に通じるものである。つまり、それが人類の真理だということだ。その意味で、わたくしは「世代間闘争」に持ち込もうとする人たちに与しない。人は産まれる時間と場所は選択できないし、親も選ぶこともできない。変えられないものを誰か他人の尊厳を奪ってまで取り戻す権利は誰にもない。逆に、本人が努力によって変えられないものをもって個人の機会を奪うことを社会が禁じていることこそ、近代市民社会が“人類が勝ち取った”最大の功績なのであるから。若者は将来を支える世代だし、子どもはわれわれの未来そのもの。老人は自分たちの未来の姿である。世代間で争っている場合ではない。


(追記)

なぜ世代間論争になりやすいかといえば、同世代ということで共感を得られやすいという幻想があるから。
しかし上で述べたように「人は産まれる時間と場所は選択できない」し、人は必ず歳を重ね老いていくので、新しい命に未来を託すしかないのだ。「時代」と「年齢」が一致する一点の縦糸が自分の人生であるなら、同時に生きる全ての人々と共に生きていくしかないではないか。