今週の「いいこと言うなあ」(その2)

掃除と憲法 (内田樹の研究室)から

日本国憲法現代日本の現実と乖離している。
当たり前である。
憲法というのは「努力目標」である。
現実と乖離しているから改憲しろというのは、「平和な世界を作りましょう」という目標を掲げている人間に向かって、「そんなことを言っても現実的ではないから、『世界はあまり平和ではありません』に書き換えろ」と言っているのと同じである。
「世界はあまり平和ではありません」というのは事実認知的には100%正しいけれど、いかなる遂行的メッセージも含まない。
現実に合わせて憲法を改定しろというのなら、第一条を「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であるが、象徴というのはどういうことかはよくわからない。この地位は主権の存する日本国民の総意に基づくとされているが、日本国民の総意は訊いたことがないので、よくわからない」とするところから改憲したらどうだろう。
11条は「国民はすべての基本的人権の享有を妨げられないが、妨げられている人もいる。この憲法が国民に保証する基本的人権は侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられるはずだが、憲法が変わった場合や内戦やら飢饉やら日本沈没の場合にはその限りではないので、『侵すことのできる、暫定的な権利』にすぎず、もしかすると(たぶん)将来の国民には与えられないであろう」に改憲したらどうだろう。
これなら現実との不整合は原理的になくなる。
憲法が「タフでクールな現実と整合している」ということと「国民をある理想社会にむけて導く遂行的メッセージを発信する」ということは両立しない。
どちらかを取るしかない。
憲法が現実離れしているのは、世界のどこの国でも似たようなものである。
コスタリカ平和憲法を掲げているが、実体は米州機構の一員で武装国家である。
オーストリア永世中立を掲げているがEUのメンバーなので安全保障の枠組みの中にいる。
イタリアは憲法で「他の人民の自由を侵害する手段および国際紛争を解決する方法としての戦争を否認する」と謳っているけれど、イラク戦争には派兵している。
中国の憲法は「中国は独立し自主的な対外政策を堅持し、領土主権の尊重、不侵略、不干渉、平等互恵、平和共存の5原則を堅持し、各国の外国関係と経済、文化交流を発展させる」と書いているけれど、チベットベトナムに対して行ったことが「侵略」でも「干渉」でもないなら、あれは一体何なのだ?
だが、憲法というのは「そういうもの」である。
私たちが中国人に向かって告げるべきなのは、「そういう非現実的な憲法は廃棄して、『必要があれば、他国の領土を侵犯することもある』と書き換えた方が現実との整合性がよろしいのではないか」というようなお節介ではなく、「あの〜、せっかく憲法に書いてあるんですから、その通りにやってくれませんか?」という懇請の言葉であろう。
憲法は現実離れしているがゆえに、ささやかな規制力を保持している。
それでよいと私は思う。

わたくしもそう思う。
この文章の直前、

赤旗」「朝日新聞」と「護憲派の立場からひとこと」という要請が続く。
どうも昨今公的立場にある人は「護憲」というと肩身が狭いらしく、取材の依頼にも「いや、ほんとうは護憲なんですけど、記事にされるとね。ちょっと世間的にマズイので・・・ま、ひとつご勘弁を」と逃げてしまうらしい。
私のところにまで護憲のコメントが回ってくるということは、フクシマミズホ的でない語り口で護憲を論じる人があまりいらっしゃらないということなのであろう。
困ったことである。

という書き出しが可笑しい。でもまあ、笑っている場合ではないのだが。