普遍と大衆。超人と平凡。そして、コミュニケーションとメディア。
いきなり引用から始めましょうか。逆襲のシャア全セリフから
アムロ「革命はいつもインテリが始めるが、夢みたいな目標を持ってやるからいつも過激な事しかやらない。
「しかし革命のあとでは、気高い革命の心だって官僚主義と大衆に飲み込まれていくから、インテリはそれを嫌って世間からも政治からも身を退いて世捨て人になる」シャア「愚民どもにその才能を利用されている者が言う事か。
「結局、遅かれ早かれこんな悲しみだけが広がって地球を押しつぶすのだ。ならば人類は、自分の手で自分を裁いて自然に対し、地球に対して贖罪しなければならん。
「そうか、しかしこのあたたかさを持った人間が地球さえ破壊するんだ。それをわかるんだよ」
アムロ「わかってるよ。だから、世界に人の心の光を見せなけりゃならないんだろ」
要は「エリート(仏)」による選民思想は間違ってる、ということですね。もちろん、ここでいう「インテリ(露)」とは知識階級のことです。少々、古臭い言葉ですみません。
しかし古臭ろうが何だろうが「人は人を支配することは出来ない」のが近代民主主義の勝ち取ったテーゼでありまして。人が人を支配するのは、奴隷制度なんですから。「一般大衆」を莫迦にしたら民主主義は成り立ちません。ですが一方「多数決」は手続きの一つに過ぎないのであって、なんでも多数決で決めていいのなら議会は不要です。みんなでボタンを押しさえすればいい。昔“発明王”エジソンが初期の試作品を、実際に持っていったけれど議員に却下されたのは有名なエピソードです。
大切なことは何か。『超人ロック』というコミックがあります。文字通りロックは超人で、スーパーマンなんか屁でもない、バリアーもあるしテレパシーも持っている。サイコキネシスだってできるし、テレポーテーションも時間移動も可能。しかも不死なんです。その彼が全宇宙を駆け巡って、現在から過去・未来を時間旅行しても、世界は平和にならない。すべての人を救うことは出来ない。その苦悩はどれほどのものでしょうか。まさに『シーシュポスの神話』ですね。
話がそれました。なぜ超人ですら世界を救えないのか? それはロックが孤独だからです。一人では世界を変えることはできません。(さらに言えば、地球は人類だけのものでもないのですが)世界を良くすることができるのは、世の中の人々それ自身なのです。それが、普遍の原理でありまして、そして上記の「人の心の光」こそ、“コミュニケーション”なのではないでしょうか。
「インテリゲンチャとは“中間者”であるべき」とは昔の人の言葉です。アイデア(理想)と知識を持った人々と、全世界の人を繋ぐのが「メディア」であるとするなら、そのツールはたくさんあった方がいいに決まっています。ああ、なんていい時代なんでしょうか。メディアにコミットしてる皆さん、がんばりましょうね〜