人類の未来は「多様化」にあるのか「フラット化」にあるのか?

 結論から言おう。答えは「その両面にある」だ。

『ロボットと帝国』P327から

「はい、マダム。あの方(イライジャ・ベイリ)は臨終の床でこう言われました。
「人類ひとりひとりの仕事は人類全体に貢献しているんだよ、だからそれは全体の一部となって永遠に消えることはない。その全体は──過去も現在も、そして未来も──何万年となく一枚の綴織(タピストリー)を織りなしてきた、そいつはしだいに精緻になって、おおむね美しくなった。スペーサー(宇宙移民者)だって、そのタピストリーの一部なんだぞ。そしてやつらだってタピストリーの模様を精緻に美しくしてきたんだ。個人の生命はタピストリーの一本の糸だよ」

 かけがえの無い「1本1本の糸」も、何万年となく織りなしてきた「一枚の綴織(タピストリー)」も共に大切なのだ。
 人間は一人一人違うアイデンティティを持った存在だが、同時に「たった一つの種」であるから。

拙レビューフォルダ「BOOK DARTS」『われはロボット I,ROBOT』から

 かつてゲーテが述べた
「“人類”ですって、そんなものは抽象名詞です。存在するのは人間だけです。これからもずっと変わりないでしょう」という立場だ。
 しかし、再読してあらためて私はこう思った。
“人類”を正しく認識することが、新しい世紀に生きる人間の務めなのだと。楽観は未来への意思であると。

 
 もう一つ。よくある「なんたら革命」や「ほにゃらら進化論」の蔓延について。
 アルビン・トフラーの偉大さの一つは“波”という概念を適用したところだ。全てが入れ替わる、ということはない。「しだいに精緻になって、おおむね美しくなっ」ていくべきものなのだ。もちろん過去のほうが素晴らしい、ということはない。というか、それなら現在の我々が存在する価値が無いではないか。

同じく『BOOK DARTS』国家の品格から

村上龍ちゃんwrote;>
もう一点確認しておきたいことがある。日本は歴史上、現在もっとも良い時代を迎えているということだ。江戸の良さが強調されることも多いが、被差別部落を含む固定化された身分制度があったことを忘れてはならない。明治時代も懐かしく回顧されるし、大正時代や昭和初期のロマンチシズムもしょっちゅう美化されて伝えられる。だが戦前は女性の参政権すらなかった。戦後の復興と高度経済成長は、特にバブル以後、精神的豊かさを犠牲にして経済的豊かさを得たなどと、ネガティブな面ばかりに目が行きがちになっているが、環境問題を除けば、あらゆる点で日本社会は良くなったとわたしは思っている。高度成長はもちろん必要だったし、決して簡単なことではなく、わたしたちの暮らしは戦前や戦争直後に比べると飛躍的に良くなったのである。(『「個」を見つめるダイアローグ』前書き)

同 チビッコ三面記事 子どもの事件簿から

 まえがきが素晴らしい。
「古きよき時代だなんて幻想だ! 今だってそんなに捨てたもんじゃない」
「いまのほうが昔より悪いことなどありえない。ええ、絶対にありえませんとも。私たちは成長しているのだ」

 
「マス・マーケティングの終焉」なんて、20年以上前から言われている話であって(「分衆・少衆」論も同様)、大量生産・大量消費の始まりは、人類の歴史の中では「200年」タームで語られるべきものなのだから、歴史的パースペクティブを決定的に欠いている。 それらが一夜にして変わる、ということがあるはずもない。先に述べたように、新しく加わる・変化していく・常に進歩していく、ものなのだ。それは人類の必然に過ぎない。

 マス・コミュニケーションが重要なのは、人類が一つの種であることの証であり、一人ひとりが違う存在だからこそ、互いの「普遍」を確認するために必要な装置なのである。映画であれ、小説であれ、僕らが優れた創作や、一流のアスリートに感動するのは、それ故ではないか。