マスコミの公共性について

 まず、昨年読んだ本のなかで最も興味深かった『公共性〜思考のフロンティア』のURL。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/400026429X/qid=1108016345/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/250-6822667-5521037#product-details
 ここで言われている「公共性」とは、
「オフィシャルではあるが、コモンでもオープンでもない」。つまり「プライベート」に対する「パブリック」という概念のことだ。(この間に存在する「ソーシャル」(社交性)については、またいつか述べたい)

 私がいちばん興味があるのは、「メディアの多様化」という文脈の中で、よく用いられる「マスコミのパワー(信頼性)の低下」というテーゼである。それは正しい見方なのだろうか。
 若者が(オジサンだな、この言い方自体が^^)「裏読み」が好きで、「マスコミの報道なんか信じていない」と言う癖に、オカルトやUFO、血液型性格判断みたいなことを鵜呑みにしている莫迦莫迦しさ。「広告は信用できないけど広報なら信頼できる」。うん? そもそもマスコミを信じていないんだったら、それって無効じゃん(笑)

 そんな時、今まさに「公共性」を問われている放送局の研究所が、webサイトにこんなインタビュウを掲載していた。
http://www.nhk.or.jp/bunken/research/kokunai/tenkan_05020101.pdf
 TBS出身の演出家、今野勉氏の言葉。
──「どうせテレビはやらせなんだから」という言い方が一時流行しましたが、そうやってメディアを距離を持って見る大切さがあると同時に、逆に非常に不幸な時代だなという気もします。
──そこで、小説の世界では読者を納得させるために、多層構造を持つようになってきています。映像の世界もそういうふうになりつつあるんです。
──的確な多層構造によって、作り手と対象と視聴者との関係を明らかにすることで視聴者の信頼を取り戻すとか、いろんなことが必要になってくるんだと思います。

 正しい認識だと思う。

──僕はマスコミュニケーションの役割は絶対必要だし、マスコミ的なメディアは残るべきだと思います。
──マスコミがなぜ面白いかといえば、不特定多数がどういうふうに流動するか分からないからです。突拍子もないもの、未開拓で未知のものを作り出す可能性は、マスコミというダイナミズムの中にこそあるんです。
──僕がアメリカに行って不思議に思うのは、視聴率競争は日本よりはるかに激しいけれど、表現ではすごく大人だということです。(2004年のスーパーボール中継、Jジャクソン事件を取り上げて)テレビならテレビでの公共性についての暗黙の了解が成立している。それが文化ということで、アメリカ文化(宗教的倫理観)が公共性を支えているんですね。
──ところが日本にはそれがどうもないようで、何が歯止めになり、どこまでが許されるというのがない。テレビが危険なのではなく、日本の社会の中で公共の場ではここが線だよと暗黙の了解を作れない。

 なるほどね。

 もともと、commonとかcommunicationの(com)というのは、ラテン語の前置詞 cum (with)の異形で、「together」と同じ意味なのだ。
──共に、共同して、一か所に、相互に、同時に、一斉に、調和して、続けて──
 つまり、相手への理解、共感。他者の中に自分と同じ部分を発見すること。芸術であれスポーツであれ、文化であれ、それが人を感動させるのは「自分と同じ人間が、こんなことができるんだ。(もしかしたら自分もできるかもしれない)」と訴えかけてくるからである。一言でいえば、それは「普遍」ということだ。

 そのような“通じ合う”感覚を持って、初めて人は理解し会うことができるのだ。その感覚を大事にしたい。昨日のワールドカップアジア最終予選の熱狂の中にも、きっとそれはあったはずだ。人間には共通する「目標」が必要なのだ。ひとりで生きてはいけないから。

(いつか、もう一回書き直します。趣旨がメチャメチャ^^;)