ENGINE12月号「from EDITOR」から

【Re:名文】

 今朝の朝日新聞で「今の日本で最高の名文家は、吉田秀和である」と丸谷才一が述べていた。まったく異論はない。さすが丸谷先生。しかも褒める文章がまた巧すぎ。

 それとは別に、好きな文体というのもあって。
 僕が今、一番いいなと思うのはENGINEのスズキマサフミさん。実に見事な散文だと思います。
 ではいくぞ!(掟破りの全文転載)

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 ドイツではミュンヘン近郊のアウトバーンを、イタリアではマラネロの街から上がっていく丘陵のワインディング・ロードを、そして日本ではいつもの箱根の山道を、それぞれ全身全霊をかけて走っていろいろかんがえた。かんがえた結果、ハッとおもいあたることがあった。

 それまでは堂々めぐりの思考をしていた。たとえぱ、こんなふうに──。クルマはどんどんパワフルになって、常識がおよびもつかないぐらいに速くなって、でも、そのぶん乗りづらくなるのではなく逆に乗りやすくなって、だからさし当たってクルマ好きの僕はハッピーだけれど、だが、それでいいのだろうか、とまずかんがえた。でも、技術が進歩していくのは当然のことで、進歩を押しとどめることはできないし、するべきでもないとすれば、この現実を受け入れていくほかないではないか、とつぎにかんがえた。しかし、そうだとして、ではいったい、クルマはどこまで速くなり、どこまでデキがよくなり、どこまで常軌を逸していくのだろうか? とおもいをめぐらして、答が出なかった。

 ミュンヘンではスーパー・スポーツカーを打ちひしぐパフォーマンスをさらりと見せつけたBMWの怪物4ドア・サルーン、M5の、マラネロではいままちがいなく世界でもっとも魅カ的で有能なスボーツカーであるフェラーリF430の、箱根では品質感とフットワークを大幅に向上させた新型ポルシェ911(997)の、ステアリングを握っていた。条件が許しさえすればM5は時速330キロメートル、F430は315キロメートル、そして911は高性能機種のカレラSで293キロメートルの最高速を出せるのだという。だが、いうまでもなく、僕たち(のほとんど)は、そんなハイスピードをぜんぜん必要とはしないのだ。

 しかし、それをいうなら、だいたい自動車そのものが、それが生まれた時代においては必要とされていたものではなかったし、常軌を逸した存在だった。だが、そういう自動車に用途や必要がついてきた。自動車だけではない。蒸気機関でも電話でもテレビでも、あるいは飛行機でも、いや僕たちのいわゆる現代生活にとって大きな役割を果たしているほとんどすべてのものが、最初は必要でなかったし、常軌を逸したものばかりだった。それが証拠に、人間は自動車や蒸気機関や電話やテレピや飛行機がなかった時代にも、美しい詩をつくり、だれかを愛し、生きるよろこびを知る同じ人間だった。つまり、僕たちが享受しているほとんどのものを享受せずとも、りっぱに幸福に生きていた。

 だから、そういういろいろなものがなかった時代に戻ろうという主張をなしたいわけではない。僕たちの生活がいま必要としているものは、かつては必要がなかったから存在しなかったといえるいっぽうで、存在しなかったから生み出されたのであり、いったん生み出され、生き残ったものは、必要なものになっていったのである。でもだからといって、あたらしいものがすべて、なにかの必要を満たすためにつくりだされたとはかぎらない。ライト兄弟がたんに飛びたかっただけなのは、ゴットリープ・ダイムラーがたんにエンジンで車輪を動かしたかっただけなのとおなじで、それ以外に特別な意味があったわけでも目的があったわけでもないのだ。しかし、意味も目的もない、つまり必要のないものをあえてつくり出すことは、ずいぶんステキなことではないだろうか。

 BMWのM5はいま世界一の高性能4ドア・サルーンであり、F430は世界一の2座スポーツカーであり、911は世界一の2+2GTだと僕は断言できる。この3台がそうなったのは、一般の自動車に比べればいずれもが、飛びぬけて速く、飛びぬけてデキがよく、飛びぬけて常軌を逸しているからだ。だから、この3台は僕たちの人生をたのしくすることができる。

 と、そうかんがえをすすめていって僕は、クルマはどこまで速くなってもいいし、どこまでデキがよくなってもいいし、どこまで常軌を逸してしまってもかまわない、とおもうにいたった。なぜなら、クレイジーなクルマが時速300キロメートルで走るような世界になっても、僕たちはいぜんとして美しい詩をつくり、だれかを愛し、生きるよろこびを知ることができるはずだから。

 クレイジーなほど速かったり、デキがよかったりするクルマが善か悪か、とかんがえることはない。それは善でも悪でもなく、クルマというかたちをした僕たち人間の写し鏡でしかないからだ。そして人間も、善でもなければ悪でもない。だから、だれかみたいに善を名乗る人間には要注意だ。善は不善をなす、とむかしからいうではないか。(鈴木正文)

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 読ませるコラム。見事な散文。
 ほら、なんとなく深代惇郎っぽくないですか?
 オチも天声人語的だし(笑)