Re:書評 - なぜ勉強するのか?

これも素晴らしいエントリーだぁ〜
先日、LISAmamaと話をしていて感心したこと。

子どもに「なぜ勉強しなきゃなんないの?」と聞かれたから、
「人の役に立つ人間になるには、勉強しなくちゃなれないからよ」

と答えた、と。
「この勉強が(自分にとって)何の役に立つか」ではなくて、
「勉強しないと(自分が)役立つ人になれない」。
この違いは大きい。
むかしは「人様の迷惑になってはいけませんよ」というのが最低限の子育てだったのかもしれないが、
ニートだってフリーターだって、誰にも迷惑はかけてない(親がそれを許しているなら)。
いまやそれだけでは不十分な時代になったのだろう。
「子どもを育てる」ということは、社会を育てることであり、未来を創ることなのだ。
いやぁ、LISAmamaもいいこと言うなあ(~o~)

(追記)ほらほら、これこれ↓。
asahi.com: 下流志向―学ばない子どもたち 働かない若者たち  内田樹 - 書評 - BOOK

 今の子供はしばしば「これを勉強すると何の役に立つんですか」と聞く。消費者として自分を確立した子供には当然の問いである。消費者にとって、自分がその有用性を理解できない商品は意味をもたないからだ。

 だが、「何の役に立つか」と問う人間は、ことの有用無用について自分の価値観が正しいと思っている。勉強によって自分の価値観そのものがゆらぐことを知らない。幼くして全能の消費者となった立場から、今の自分の役に立たないものを退ける。

 そうではなくて。
「自分が、誰のために役に立つか」を考え、努力するところに“オトナへの道”があるのだ。
 そもそも社会的分業というものが「自分の得意なことを、それぞれが担うことで社会全体の生産性を上げることにあるのだ」と内田先生がかつて書いておりましたな。
「失われた教養」は再構築できるか?

 教養の再構築とは、別に新たに何かの知識や技術を身に付けることではない。そうではなくて、自分の持っている知識や技術が「他の人たち」にとって何の意味をもつのかと自問する習慣を持つこと、ただそれだけのことである。そう問う習慣を持つ人を私は「教養人」と見なしたいと思う。